第40話    「庄内竿 V」   平成17年01月09日  

「好事家に聞くと釣竿は調子がよくて実用向きであると同時に美的であって、見る目に気品の高いものでなくては逸品とは云われない。昔の人の刀と同じように、実用品であり、観賞用具ともなっている訳だ。・・・・・」

これは井伏鱒二が1960年頃に東京高島屋で魚拓展覧会が催された時に、日本各地の名竿が会場の一角に展示された時の模様である。彼はその会場に出品された見覚えのある数本庄内竿を発見した。それは当時酒田の本間美術館の館長をしていた本間裕介氏に見せてもらった庄内竿であった。

この本間祐介氏は、若い頃昭和の名人と云われた鶴岡の山内善作より数年に渡り竿作りを学んで後、酒田で道楽商売と云われた釣具屋を営んでいたが、従兄弟の本間家の当主が戦時中徴集されるに及び本間家の仕切り一切を任される事になった。その為に止む得ず釣具屋を閉めた。その事が後に彼が実業界へ羽ばたくきっかけとなっている。まもなく従兄弟であった当主が亡くなり、戦後本間家の若い女当主の元、日本一の大地主であつた本間家は農地改革でGHQの指導の元農地を手放さなければならなかった。その最大の危機を見事乗り越えて本間家の改革を断行し、実質的な経営を行って営業で飯が食えると云う立て直しを行った人物である。その様な経過のために、彼の作った竿はそんなに多くは無いと云われている。その代わり真物を極める目利きは県内有数の刀剣の鑑定家としても知られているが、それにも増して釣竿の鑑定眼はまた素晴らしい物で彼の師匠竿師山内善作の指導よろしく更に大した物であったと伝えられている。

竿を一目見るなり、「これは誰々の作です」とはっきりと云えたと酒田の釣具屋の根上吾郎氏は「随想 庄内竿」の中で語っている。祐介氏は道楽商売といわれた釣道具屋を営んでいた事で、庄内の釣具に関して取り分け関心が深く、本間美術館の館長と云う立場を利用し時代と共に失われ行く庄内竿の収集に心がけていたように思う。ただ実業界での仕事の傍らのことであり、収集が思うに任せず鶴岡の致道博物館のそれより少なかったことは残念でならない。また昭和60年頃の展示会を最後に釣具の展示が、行われていないことも更に残念である。

昭和30年後半にグラスロッドが出回るようになった。グラスロッドが出始めた前半の時代は、まだ非常に高価な物であつたから、価格的にも庄内竿も十分に対抗で来た。やがてグラスロットが量産され安くなって来ると、依然曲がり易く癖の出る二年子を3年子と偽って販売して来た事などが裏目に出て、釣り人の一部から徐々に竹からグラスへと移行を始まって来た時代でもある。当時庄内竿に比べ太いけれども軽くて手入れの少なくてすむと云うグラスロッドが出て来た事は釣の業界にとっては画期的な事であった。そして庄内竿にとって最終的なダメージを与えたのは、49年以降にカーボンの竿の出現である。

庄内竿の進化が大正時代の継竿で携帯に便利となって、次に昭和20年代に中通し竿に変化した。しかし、残念ながら庄内竿の進化は其処でピタリと止まってしまったのである。古来からの竿の作り方を忠実に守り、延竿をこれが庄内竿として来た事、つまり保守的過ぎた事が裏目に出て、竿の進化を止めてしまったのである。最近になって和竿の良さが見直されて来ているのだが、その頃にはもう竿師の方は極く少数になってしまい、県の伝統工芸の仲間入りにならざるを得ない状態にある。釣りの世界は戦後目まぐるしく変わっている。日進月歩の進化の過程で、竹竿からグラスロッド、グラスロッドより軽くて強いカーボンロッドへと変化し、釣法も大きく様変わりした。釣り方もすっかり変わり玄人の釣技から、素人でも簡単に大きな魚を釣る事が出来るようになった。

関東の和竿と異なり田舎では、庄内竿がいくら良くても価格が高価で中々売れない。それなりの釣り味とかが、価格に十分それが反映した物でなければならない。釣が大衆化した今日良いものは黙って売れる時代では無くなったのである。関東辺りのある程度量産がきく様な竿作りで価格もそれなり出なければ、これからの庄内竿は無いと考える。庄内ではこれまで同じ一本の竹で無いと後家竿と云って嫌われてきたが、量産出来る様にするためにはそれもいたし方が無いであろう。作り手が沢山いてその中に名人が少数いると云ったピラミッド形が出来ないと竹の竿の普及は無理であろう。

グラス竿やカーボン竿に押され、一時関東の和竿の職人さん達も売れずに困ったと云う時代があり窮地に追い込まれた事をあった筈である。そのたびに竿作りが進化し新しい時代にマッチしたものを作り上げて来た事が、今日に生き残れてきたと云う事と理解している。はっきり云って釣竿なんて、なんでも良い筈である。それを客がわざわざ高価なものを買うと云う事は、より良い釣り味を求めての事である。一方竿師の方もそれに答えるものを作らなければならなかった事は当然であった。

竿が作ればいくらでも売れた時代におろそかにして来た事が、悔やまれる。ロクな竿でもないものを、高価で販売してきた時代があつたことが、新しい化学繊維で出来た安い竿が出て来た事により、そちらへと移動してしまったのである。一度化学繊維の竿を買った釣り人は、そのほとんどの釣り人が二度と戻って来なかった。それは良い竿の感触を知らなかったからである。竹竿のフアンはお年寄りの一部の者に限られそれらの人が亡くなると忘れ去れさられてしまう事になった。最近若い人たちの間にも竹の竿の良さを認識する人たちが現れているようだが、竹の竿があっても相当高価で手が出ない状態である事が、又庄内竿の普及出来ない原因でもあるようだ。